今日、慰霊祭があって行ってきました。
鎌倉の臨済宗円覚寺、別格何位だかのお寺らしいのですが
隅々まできれいに手が入れられてとても清々しい。
境内に大きな銀杏の木がありました。
もう若い実をつけてました。雌株なんですね。
寺社仏閣には銀杏の木が多いです。銀杏は元々中国原産。
たぶん留学僧が持ち込んだか持ち帰ったかして、それが
広まったものなんでしょう。
蓮鉢には蓮がつぼみをつけていました。
鉢の中にはメダカがいましたね。
古参ネット民としては「蓮」と聞くとどうも…(笑
あぁ…背筋がざわっとして鳥肌がw
グロ画像には昔から弱いです。って何の話だ。
なんという品種ですかとご住職の奥さんに伺いましたら
「桜蓮」だということです。
まぁそんなこと聞いたって別に詳しくも興味があるわけでも
ないので「はぁ、そですか」と言うしかないんですが。
だったら聞くなよ、って話ですけどね(笑
しかしお寺の住職の奥さんを「大黒」とか「梵妻」とか
称するのはナゼなんだろうか?
住職に訊けばよかったな(笑
始まるまで時間があったので墓苑をふらふらしていたら
こういうお墓を見つけました。
第12次南極観測隊に参加された方のお墓みたい。
第12次っていうと…今が52次だから…40年前??
観測船は宗谷かな?ふじかな?ふじだろうな。
あとで観測隊OGのひぃさんに訊いてみよう。
しかし、南極の石って持ち帰ってもいいんだっけ?w
もう訪れる人も絶えたのだろうな、と思われる草むらの中の古い墓碑。
かろうじて「天明三年」の文字が読める。227年前ねぇ…
天明といえば天明の大飢饉か。それで亡くなった方なのかもしれん。
まぁなんにしても年月は栄枯盛衰すべて関わりなく。
おして残るものといえば草むらの中の墓標だけ
人の死は、徹底的に死者のものではなく生者のためのものだと
物言わず教えてくれます。
慰霊の法要では、ご住職が読経に先立って「東北の大震災でお亡くなりになった方への
御回向も重ねて賜りますようお願い申し上げます」と。
そうですね。我々生きている者の務めですね。
合掌…
CIao nobさん
返信削除私も今回家のお墓に行ってきました
お墓って言うのは、行くたびになんか背筋がすっと伸びるような、清々しい思いになって帰ってこれる
まあ、生きてるうちにちゃんとやっとけば、
こうしてきれいなお花だの、背中流す代わりに、お墓石洗う、なんてことしなくてもよかったのだろうが...苦笑
そうだね
死というのは、何よりも生きてる人のためかもね
ご供養は逝ってしまった人のためでもあると思いますけどね
忘れないでいますよ、ってことの証でもある
合掌
junkoさん、本当はね、すべて無名のものに還るのが本来なのですよ。
返信削除朽ちて土に還る葉に名前はいらないのです、本当は。
それを寂しいと思うのもまた生きている者です。
大丈夫ですよ。何も心配いりません。
聞かれてないけど、答えてみます。
返信削除第12次南極地域観測隊・越冬隊の活動期間は、1970年〜1972年。
ということは、「ふじ」の時代です。
昔は石を持ち帰ってもよかったんですよ。
今は、「環境保護に関する南極条約議定書」や国内法令によって、調査目的で申請した分以外は持ち帰れないようになりました。
お土産で持ち帰れるのは、氷くらいかなぁ。
氷は、みんなで氷山に出かけて砕いて箱詰めし、砕氷船の冷凍庫で運んでもらいます。
越冬隊で段ボール2箱、夏隊は1箱が取り分です。
無名天地之始、老子ですね。
返信削除人の死は死者のものではなく生者のためのものだ。。。私もそう思います。。お墓というのはそこで死者にしばし思いを馳せる為にあるのでしょうね。誠意をこめて思いを向けるという行為が死者への慰霊となるのでしょうね。
「天明三年」の文字が刻まれた墓碑にふと足を止めるnobさんがいいなあ。誰にも忘れられてしまった葬られた人の歴史を思うと感慨深くなりますね。
大震災で亡くなられた方々へ私も合掌。。
あら。ひぃ姐さん、ありがとう。
返信削除古い越冬隊の記録って極地研でもどこでも公開してないんですね?探しても見つからなかった。
最近のはOBさんたちの活動でおよそ知れるんだけど。
南極の石ってそういえばどっかで見たな?と思ったら富士宮の浅間神社で見たんだった。やきそばもうまかったです。
で、ここでお約束。
ペンギンは何羽まで連れて帰っていいの?
そうだ、業務連絡。
うすらハゲが今年も地元の自治会のお祭りを仕切るようです。
震災関連の寄付を強要…げふんげふん、強くお願いしてみたら?
なんならフォローしますぜ?
miraさんありがとう。
返信削除そうです。
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず
です。
命というものですらそれのひとつの形でしかないとワタシは思ってます。
ですからね、無性に愛しいわけです。なんていうか、うまい言葉がないですけど。
ま、そんなわけです(笑
変なコメントになってすいません。
>>人の死は、徹底的に死者のものではなく生者のためのものだと物言わず教えてくれます。
返信削除存在しないけれど、私たちにaffecter<影響する>存在。それは「死者」である。存在しないにもかかわらず「私」に「影響を与え」(affecter)、私が倫理的に生きることを「命じる」のである。
内田樹のレヴィナス論を思い出しました。
まりまんどなさん
返信削除ワタシ大昔にレヴィナスの何かを岩波で読んだときに
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し
生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向って
遊戯三昧ならん
これかなと。なんかしっくりくるなと(笑
そんな風に思った時期もありましたw
他者と自分を死者と生者に置き換えるとそこに「否定する」というアプローチが必須のような気がします。
ですが、それは常に一方通行になります。
なぜなら「死人に口なし」だからです(笑
ゆえにそれは常に自分に向かってループします。
無限ループだから出口はない、または出口がないから無限ループ。
無限ループって怖くね?w