2011/07/04

知る、もしくは知らないということ。

とあるブログのコメントを読んで。

「知識がある故に譲れない部分があって、実際はそうでなかったとしても
お互いを貶し合う様にしか議論ができなくなるならば、知っておかなければ
いけない歴史的な事実や、今現在起っている外交問題なんて知らなければ
良かったと思ってしまいました。

「私はまだ10代で、ここにコメントをしている方々や管理人さんが
何について述べているのか解らないことも多々あります。
どちらを擁護するとか、 そのような考えはありませんが、知ってしまうことで
何人であろうと同じ人間を「寄生虫」と呼ぶようになってしまうなら
わたしは、何も知らない無知な阿呆 のままでいいです。
ゆとりだとか、平和ボケしているとか、どう思われても構いません。
ただ、とても悲しい気持ちになりました」

これを受けて、管理人氏は別のエントリーでこう述懐しています。

「知ることとは、言わば真っ白なノートに知り得た知識を書き込んでいくことです。
それは言葉を変えれば、真っ白なノートを汚していくことでもあります。」

「中には、まるで市販の参考書のように綺麗に書く人もいるでしょうけれど
字が汚い人や、添え書きや書き足しをする人のノートなどは、他人が見れば
到底綺麗 とは言えないでしょう。真っ白なノートをそんな風に汚してしまうのは
なんともったいないという価値観もあるのでしょうけれど、では真っ白なノートに
何の意味があるのでしょうか。
ノートとは、知り得た知識を書き込んでこそのノートなわけです。」

さて。

人を寄生虫呼ばわりすることの是非はともかくとして。
この10代さん(仮名)と管理人氏との間の「知ること、知識」に関しての認識の隔たりが
ワタシには興味深く思えました。

例えば、どこかの遺構に佇んで空を見、草木を眺め、空気を嗅いで得られるものと
その遺構の成り立ち、背景、諸々の事情を知った上で得られるものは明らかに違います。
ですがそれは、どちらが正しいとかどちらが優れているといった性質のものではありません。
ただ単に違う、それだけの話です。

ひとつのリンゴをどう見るか、というだけの話。
なるほど、そういう見方もありますね、ではごきげんよう、と別れれば終わります。
10代さんは右へ、管理人氏は左へ。どうぞお元気で。アディオス・コン・ディアス


ところがそうじゃない状況がここにあるのです。キーワードは「社会との関わり」と思います。
知る者は言う、知るべきだと。道を決めるために知るべきだと。
知らない者は言う、心の平和が乱れるなら知らなければよかったと。

ワタシこれで「天空の城ラピュタ」のあるシーンを思い出したのですね。
わかりますか?わかりますよね>まりまんどなさん(笑

タイガーモス号の見張り用ゴンドラの中でシータはパズーに言います。
「本当はラピュタなんかちっとも行きたくない
ゴリアテなんか見つからなければいいって思ってる」
 
「いいまじないに力を与えるには悪い言葉も知らなきゃいけないって
でも決して使うなって。教わった時、怖くて眠れなかった。
あの石は外に出しちゃいけないものだったのよ。
だからいつも暖炉の裏に隠してあって、結婚式にしかつけなかったんだわ。
お母さんも、おばあさんも。おばあさんのおばあさんもみんなそうして来たんだもの。」 
 
そして
「あんな石早く捨ててしてまえばよかった!」
と言うのです。 

それに対してパズーはこう言います。
「違うよ。あの石のお陰で、僕はシータに会えたんだもの。
石を捨てたってラピュタは無くならないよ。
飛行機械がどんどん進歩してるから、いつか誰かに見つかっちゃう。
まだ、どうしたらいいか分からないけど、
本当にラピュタが恐ろしい島ならムスカみたいな連中に渡しちゃいけないんだ。 
 
そしてこう言います。
「それに…今逃げだしたらずっと追われる事になっちゃうもの。」
映画はバルス!の一言ですべてチャラになり知るも知らぬも一緒くたに
済し崩し的大団円を迎えて終わりますが
残念ながら現実世界ではそういう便利な言葉はないようです。
知るか、知らざるか。 
これに対する解答はワタシも含めて人それぞれだろうと思います。
願わくば、その答えがあなたの人生に多くの幸せをもたらさんことを。 
 
 

2 件のコメント:

  1.  これ、10代さんは本当に10代なんですかね?
    何気にアラサーって事はないですか?
    だって、私は10代の時は知るも知らないも何も・・
    ただの歩くアホでしたからねぇぇぇ。驚きました。

    でも、大人として10代の子のが目をキラキラさせて
    この質問をして来たらなんて答えるかな~・・・、

    普通に生きているとどこかで ”自分はバカなんじゃ
    ないか?”っていう疑問に突き当たると思うのですが、その自分のバカさ加減を知る計りっていうのは
    実は”知る”事以外にはない気がします・・って・・
    駄目ですね。全然。 

    あのシーンは・・・大人になってから見るとラピュタのあの徹底したまでのリビドーの排除ってなんなんだろう?ってどうしてもそればっかり考えてしまうんですよね、あのシーン。大人になるって・・(涙)。 
    シータが土に根を下ろし、風と共に生きよ!って
    いう部分で、いつも普通に感動して、そしてあの手をとりながら”パルス!”のシーンは何度見ても
    ”おーいっっ!!!”とベタにつっこんでしまいますが・・、何度見てもキング オブ 物語。です、あれは。

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  2. まりまんどなさん

    そうですねぇ、10代はワタシも歩くリビドーでした(爆

    ワタシ個人としては「悲しい気持ちとかフザけんな」ですねw
    モノを知ることがキレイなことばかりのわけねーだろと。
    その「何も知らないアホ」はこれからもキレイな上澄みの知恵知識だけ上手にすくってストローでちうちう吸って生きていくんだろうさ。
    たいしたもんだw

    「いいまじないに力を与えるためには悪い言葉も知らなきゃならない」
    ってシータのばあさんも言ってたよ(笑

    作品におけるリビドーの排除の徹底ですか。
    まぁその割にはょぅι゛ょのかぼちゃぱんつは執拗に無駄に細かく描写してますけどね(爆
    製作で自分のリビドー昇華してるから、作中人物にリビドーの描写は不要なんじゃw

    そういうところも含めて尊敬してます、宮崎先生w

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