まぁこの先生、ネット上の著作物に制限つけてない方ですので調子こいてほぼ全文引用します。
たいして長い文章でもないので…
国際関係論では「危険」を「リスク」と「デインジャー」に使い分ける。
リスクというのは「マネージ」したり、「コントロール」したり、「ヘッジ」したりできる危険のことである。デインジャーというのは、そういう手立てがまったく効かない種類の危険のことである。
サッカーの試合で、残り時間5分で1点のビハインドというのはリスクである。サッカースタジアムにゴジラが来襲してきて、人々を踏みつぶし始めるというのはデインジャーである。
デインジャーとはまさかそんなことが起こるとは誰も予測しなかったために、そのためのマニュアルもガイドラインもない事態のことである。
私たちの社会は戦後67年間例外的な平和と繁栄のうちに安んじていた。そのために、リスク対応はできるが、デインジャーに対応するとはどういうことかを考えることをだいぶ前に止めてしまった。
東日本大震災と福島原発事故はデインジャーがどういうものか、私たちに改めて教えてくれた。
東日本大震災と福島原発事故はデインジャーがどういうものか、私たちに改めて教えてくれた。
しかし、大飯原発再稼働のとき、野田首相は「国民生活の安全を守る」という同じひとつの言葉で、「デインジャーへの備え」と「リスクへの備え」を混同するというカテゴリー・ミステイクを犯したばかりか、「デインジャーよりリスクを重く見る」という倒錯的な判断を下した。
原発事故はデインジャーである。いつ、どういう様態で起きて、どのような被害をもたらすかについて予測が立たない。
それについて備えをするというのは、事故が起きたときにどうやって人命を守るかという「対症的」措置のことである。
住民の避難経路を確保し、収容施設を設置し、事故対策のための施設や機材を全原発に配備しておくということ、それがデインジャーに対してできる最大限である(それでもデインジャーには対応できない)。
それについて備えをするというのは、事故が起きたときにどうやって人命を守るかという「対症的」措置のことである。
住民の避難経路を確保し、収容施設を設置し、事故対策のための施設や機材を全原発に配備しておくということ、それがデインジャーに対してできる最大限である(それでもデインジャーには対応できない)。
同じ話を繰り返すが、「予防できる」危険はデインジャーとは呼ばない。
原発が停止したままでは電力が不足するというのはリスクである。
停電が頻発する、電力料金が高騰する、医療機関で十分なケアができなくなる、製造業が生産拠点を海外に移す、雇用機会が失われる・・・というのが想定されるリスクのシナリオである。どれも平たく言えば「金の話」であり、「金で解決できる話」である。
ただ、金を出したくない人にとっては、デインジャーよりも大事な案件である。
停電が頻発する、電力料金が高騰する、医療機関で十分なケアができなくなる、製造業が生産拠点を海外に移す、雇用機会が失われる・・・というのが想定されるリスクのシナリオである。どれも平たく言えば「金の話」であり、「金で解決できる話」である。
ただ、金を出したくない人にとっては、デインジャーよりも大事な案件である。
「命より金の方が大事だ」というのが、装飾を剥ぎ取って言えば、再稼働を進めた人々のロジックである。
あまりに長きにわたって平和と繁栄になじんだせいで、年収を増やすことが生きる目的であり、経済競争に勝つことが国家目的だと信じるに至った国民の選択したロジックである。
私は「必ず原発事故は起きる」と言っているわけではない。この先永遠に原発事故はないかも知れない。
でも、ひとたび起きたときに日本がこうむる被害は国土の汚染や国民の健康被害にとどまらない。
「デインジャーというものがこの世にありうることを知らない国民」、つまり、「幼児」として(もっと遠慮なく言えば、「バカ」として)国際社会から遇されるということである。
私は国民がまるごと「バカ」だとみなされることのもたらすそのことがもたらす災厄は電気料金や製品単価によってトレードオフされるようなものではないだろうと思う。
野田首相と原発再稼働推進派の人々は、目先の銭金を失うことを恐れて、「デインジャーなどというものは存在しない(するかも知れないけれど、われわれの身にはたぶん訪れないだろう)」という楽観的希望に国運を賭けた。
野田首相と原発再稼働推進派の人々は、目先の銭金を失うことを恐れて、「デインジャーなどというものは存在しない(するかも知れないけれど、われわれの身にはたぶん訪れないだろう)」という楽観的希望に国運を賭けた。
これほどに視野の狭い人々に、これから先の混迷を深めるはずの国際社会の舵取りを任せることに私は同意しない。
どうでしょう。
ていうか先生いつのまにか「思想家」なんて職業に就かれていたのですねw
わたくし全然知りませんでした。けっこうこっ恥ずかしい職業名ですね。「思想家」
間違ってもキャバクラのねーちゃんたちにはバラされたくない職業かもw
なんか「環境空間デザイナー」とか「ハイパーメディアプロデューサー」なんかと類似するこっ恥ずかしさがあるような気がします。まぁいいですけど。
「危険」をデインジャとリスクに分ける。先生の言い分ではこの2つは不可逆で混同してはいけないものとされてますが。
それウソです。そうですね、先だって歩道上の歩行者に自動車が突っ込んだ事故を例にとれば。
被害者からすれはこれは完全な「デインジャ」に属するものですが運転者からすれば「リスク」です。
ひとつの事象が見方によってリスクにもデインジャにもなるというのであれば論理の破綻です。
これを原発事故に戻せば、一方的に被害を受けた住民からすれは明らかな「デインジャ」でしょうけれども(まぁ意識の高低はあったにしろ)、これを管理すべき東京電力側からすればこれは「リスク」の範疇であったはず。地震の発生そのものは100歩譲って「デインジャ」であったにしても。
つまりこれは「デインジャ」によるカタストロフィなどではなくて「リスク」のマネージ、ヘッジ、コントロールのミスによるアクシデントと呼ぶべきものでしょう。東京電力とそれを主管すべき立場の政府のミスによる災害以外の何物でもないはずです。
それを「予想し得ないために手立てもマニュアルもない事態」なんて言われて誰が納得できるのでしょうか。
先生いろいろと乱暴すぎです(笑
さらに「金か命か」みたいな二項対立、事物を単純化した上での2択ってどうなんでしょう。
少なくとも、ほぼ確実に起こる中小規模の被害「リスク」と、ごく小さな確率で起こる大規模な被害「デインジャ」の比較の文脈で言うならば、どちらとも選択する理由があり、理由付けする動機はあるわけです。
それを後者を全面的に悪であり幼稚であり「生命を売る行為」であるかのごとく断じるのはいかがなものか。
論旨はわからんこともないのだけれど、その論理が破綻してる以上これは詭弁、強弁の類と言わざるを得ないです。
つーかまぁ、正直がっかりだね(笑
こんなしょーもないこと言う人だったのか。
原発事故に限らず、我々はもっとパワーコントロールを学ぶべきなんだろうと思います。
アクセル踏めば踏みっぱなしでなんの踏査も反省もなくこの狭い国におざなりなリスク管理で50基以上の原発を作り。
一丁事在れば、冷静さを失って思い切り急ハンドル切ってすべての原発を即時廃止せよとまたアクセルをベタ踏みしようとする。
バカじゃねーの?実際。
ほんの70年たらず前に八紘一宇だ進め一億火の玉だと叫んでアクセル踏みっぱなしで国を危うくした反省はどこにあるの?
つかね、こういう文脈で「国際社会」なんて言葉使う人にはどのような種類の信用も置けないわw
「思想家」なんていうならもっと言葉大事にしたほうがよくね?
ワタシそう思いました。
字ばっかりでゴメンナサイw
お久しぶりです~。日本の夏暑いですねー。お元気ですか?
返信削除内田センセねぇ・・・。思想家"penseur”を名乗っている事は知りませんでしたが、正直言って彼の原発を取り巻く言論には私もがっかりさせられています。正直言えば学者の限界というか、大学のような守られた所にいる人の傲慢さしか感じられません。
”平和ボケして年収を増やすことが生きる目的”って呑気だな~。
というか、同じ日本に生きています?ってか、私日本に住んでなかったっけ。とにかく私にはパラレルワールドなんですけどww
原発の政策いかんで”デンジャー”によるカタストロフをもろに受ける層は年収を増やすぞーっっ!とか鼻息荒くしている層じゃないでしょう。来月の支払いどうするか、生きていくお金どうするか?とかそういう層だと思うんですけどね。
有り体もない言い方をすれば”命か金か”じゃなくて、”命も金次第”なんですけよね。”命か経済か!”って随分聞いたけど、もう最近こういう事言う人の話しはまともに聞く気がしません。
そんな単純な話しだったらどんだけ良いか。こういう事言う人に限って”昔の生活に戻っても良い”とか気軽にいうけど、昔の貧しい頃の日本なんて、娘の身売りから子供の間引きまでそんな牧歌的で長閑な話しばっかりじゃないのに良くいうよ、それこそ”平和ボケ”なんじゃないんですかね?
それでも彼のいう”リスク”と”デンジャー”の区別ができない。(これが日本人だけの特徴とは思わないけど)人達がかなりの数いる。というのはこれからの日本の原発政策を決めるうえでも放射能汚染への方策を取るうえでもかなり深刻な問題だと私も思いますね。
お久しぶりです。いま女川ですか?
返信削除いっぱいうまいもん食ってますか?ウニ食いました?ホヤ食いました?
何年か前の夏に友達と一緒に45号線這って北海道まで帰ったときに、彼の奥さんのホヤ嫌いが牡鹿で劇的ビフォーアフターに逆転したのを思い出しますw
ま、そんな思い出話もしつつ。
どうしちゃったんでしょうねぇこの先生。
まぁ以前からあちらこちらトンチンカンなところはありましたけども論理の下部構造ごと、はぁ?な話はしなかったような…毒まんじうでも食ったんか(爆
ホント言い過ぎて唇がタラコになりそうだけど、日本人大好きな二項対立。すべては対立概念で理解できる的な。
まぁ確かにそうなんだけれども、その通りなんだけれども「金は命か、どっちだ!」と言われて「もちろんカネですが何か?」と言える人は多くないです(笑
そういうわかりやすい正しさの元に人の口をもごもご言わせて塞ごうとするところなんざぁ、言論サヨクっぽさに磨きがかかってきたと言わざるを得ませんわ、このセンセ。
そしてワタシが最も嫌うのはそういう「正義」なもんでw
誰も表立って否と言えないものを突き出して「どうだ」と迫るその性根が嫌い。
そんな簡単なもんじゃねーだろと。まりまんどなさん言うとおりですよ。
そういえば思い出したんですが。
いまちょうどオリンピックやってますけど、亡くなったナンシー関さんがアトランタの時にあるコラムで
「なにが正当といって、いまどきオリンピックの価値ほどの正当性はどこにもない。もはや正義といってもよいだろう。10年後、間違いなくヤワラちゃんは選挙に出る」って書いてて(笑
あぁこの人のずっしりしたアイロニーからはやっぱ見えるものがあったんだなと。やっぱ東北人はこうでなくっちゃな、と思いましたw
そう思いません?